学部1回生の時に作った簡易的なレジュメ(岡村吉彦「伯耆⼭名⽒の権⼒と国⼈ ―⼭名教之期を中⼼として―」)

岡村吉彦「伯耆⼭名⽒の権⼒と国⼈ ―⼭名教之期を中⼼として―」
(市川祐⼠編『中世⻄国武⼠の研究 5 ⼭陰⼭名⽒』戎光祥出版、2018 年、p.56-p.85)


はじめに
・山名氏はかつて最大規模の領域支配を実現⇔山名氏の領国支配や権力構造の研究不足
伯耆山名氏の領国支配機構について中核を担う守護代に注目し、権力の特質や守護―国人関係の特徴について考察
・室町後期~応仁・文明期(15 世紀)の守護山名教之を取り上げ戦国時代も展望に入れる


一、山名教之の系譜・守護在職期間について
・「伯州山名代々次第」によると、教之は父熙之を介さず祖父氏之から伯耆守護職を継承
・氏之の在職は応永三十一(1424)年十月まで確認でき、教之の初見は永享十(1438)年八月
 →応永三十一年から永享十年までの、約十五年の空白期間の伯耆守護が不明
・応永三十四(1427)年五月に、幕府が「山名鶴房」に寺社雑掌 への渡付を命じる
・永享六(1434)年四月の『満済准后日記』に、伯耆守護「山名六郎」の記述
 →鶴房は教之の初名、六郎は教之の結髪名とされる=幼年期より伯耆守護に就任
・教之の守護在職期間は応永三十年代前半から応仁初期頃の四十年余りと長期
・応仁三(1469)年一月には既に教之の長子豊之が伯耆守護職を継承している
・文明三(1471)年九月、豊之が家臣の謀反により伯耆国由良郷の嶋で自害
→文明四(1472)年、教之は伯耆国へ下向するも翌五(1473)年に死去し、伯耆山名氏は内紛や国人層の台頭を招く


二、嘉吉の乱と山名教之の備前守護職獲得
嘉吉の乱後、首謀者の赤松氏追討に功績があった者備前、美作守護職を与える決定
・惣領の山名宗全以下教之や教清といった山名氏が赤松氏追討に功績
 →播磨守護は宗全、備前守護は教之、美作守護は教清=赤松氏旧領国は全て山名氏に
・美作は祖父義理が明徳の乱で失った旧領国だったため、教清が積極的に活動し獲得
備前守護教之=赤松満祐の首級を炎上する城山城から探出+山名氏での立ち位置
・「伯耆国=時氏以来代々伯耆山名氏の守護領国」⇔「備前国代々赤松氏の守護領国」
 →歴史的前提の異なる二国の支配のあり方の違いを守護代に注目しつつ検討


三、伯耆備前における山名教之の守護支配体制―守護代を中心に―
(1)備前守護職獲得前の守護代について
・赤松満祐の首級を京で獄門←山名教之とともに代官が参列
・伊勢貞国邸での首実験に、首級を挙げた本人の被官小鴨氏が同行し褒美を受ける
・小鴨氏は伯耆国東部久米郡を中心とする国人で、平安期に国衙在庁官人として有力に
・鎌倉期に守護北条氏のもとで伯耆守護代に→南北朝期に山名氏と関係を結び以降近侍
→先述の代官とは「伯耆守護代=小鴨氏」のことを指している可能性が高い
伯耆国支配は、古代~中世にかけて強大な勢力を持った有力国人小鴨氏を、支配機構の中枢である守護代に任じて、展開されていったのではないか


(2)備前守護職獲得後の守護代について
・山名教之の若党である斎藤氏と傍輩である小鴨・南条両氏が不和に
・山名氏惣領の持豊が仲裁→斎藤氏は一時下国したが、再び上洛の意志を教之に
・教之が拒否→斎藤が兵を率いて上洛→惣領持豊が再び仲裁を試みる→失敗し武力衝突
要点1…惣領が庶家の家中内部の対立に深く介入し、平和維持に努める
要点2…守護教之とともに、小鴨・南条両氏が守護代として在京し宿所を構えている
嘉吉の乱以降、小鴨氏は備前守護代に転じ、伯耆国人の南条氏が伯耆守護代を務める


①山名教之の備前国支配体制
・赤松氏の旧領だった備前国の支配は難航し、荘園諸職を押領・押妨して実効支配
・皇室、国衙直轄領など赤松氏と結びつきの深い地域や経済的要地を徐々に支配下
・赤松被官(有力国人領主層)が教之に従わず、反山名氏の行動を取り続ける
 →在地においては有力国人層が実質的な支配権を持っており、在地における個々の諸問題については、守護でさえも彼らを頼らざるを得ない
・小鴨氏は経済的要地だった福岡荘内部に「小鴨館」を構え、この地を直轄化
・反守護勢力の多かった備前国→近臣の小鴨氏を配置換え=任国の非国人も守護代
領主的支配…国郡内国人による支配⇔官僚的支配…在地性を遮断した吏僚による支配
・教之は備前国において、単に領主的支配から官僚的支配への移行を行おうとしたが、在地性の強い地域での非国人の守護代による支配は強い反発を招き、失敗に終わった
 →官僚的支配の整備・強化を機軸としつつ、在地における領主的支配を実現する必要性


②山名教之の伯耆国支配体制
南条氏…伯耆国東部河村郡羽衣石を拠点とする有力国人→東伯耆国人層の地域的盟主に
・室町期の南条氏が、中部八橋郡石清水八幡宮別宮領に対して支配権を行使
 →戦国期に東伯耆の盟主となった南条氏が、室町期には守護代として中部まで勢力拡大
・西部会見郡賀茂社領星河荘の社家雑掌への渡付を命令:幕府→守護教之→進美濃守
進氏…伯耆国西部日野郡を勢力基盤とする国人領主、山名氏との関係は南北朝期から
・南条氏、進氏宛ての書状はいずれも守護遵行状の形式をとる→進氏も守護代
・どちらも守護山名教之という同一の発給者から、ほぼ同時期に出された書状
・寛正二(1461)年から同五(1464)年の間に守護代が交代したとは考えにくい
 →伯耆守護代に南条氏、進氏が同時に任命されている可能性が高い
・教之の備前守護兼任以降は有力国人の南条、進両氏が同時に守護代に就く複数体制
・赤松氏の播磨守護代や、山名氏の但馬守護代など複数守護代体制は多くの国で確認
南条氏…伯耆三郡(拠点の河村郡、小鴨郷のある久米郡、別宮領のある八橋郡)の守護代
進氏…西伯耆三郡(汗入郡、星河荘のある会見郡、拠点の日野郡)の守護代
伯耆国は古代から東西に分かれて異なった独自の経済圏、文化圏、信仰圏を有し、政治、軍事活動においても同様のことが言える
 →伯耆山名氏は伯耆国のもつ、この有の地域性を重視して東西複数体制を展開
・東西複数体制は嘉吉の乱以前からもとられていた可能性があるが、今のところ不明


むすびにかえて―伯耆山名氏権力の特質と戦国期への展望―
〇明らかになった歴史的事実
嘉吉の乱後の山名教之の備前守護職任命は、赤松征討における教之の功績の大きさから
・教之の支配機構は小鴨、南条、進など有力伯耆国人層を守護代に任じ、彼らを中核に
嘉吉の乱後の備前国守護兼任を契機に、守護代の補任のあり方が大きく変化
伯耆守護代:小鴨氏→南条氏、進氏の複数守護代体制(伯耆六郡を東西分割の可能性)
備前守護代:乱後に獲得したため、小鴨氏を配置換えして守護代
伯耆山名氏の領国支配機構の中核・基幹部分は、伯耆国人層との被官関係・主従関係
・有力な伯耆国人層を権力機構内に取り込み守護代として支配機構の中核に
南北朝期から教之の代まで、守護山名氏と伯耆国人層の関係は維持されていた
・享徳二(1453)年、小鴨之基が京都の邸宅で連歌会→教之の偏諱か+教之とともに在京
応仁の乱の際に、小鴨、南条、進はともに「分国之士卒」として教之の主要な軍事力
 →教之期に守護―伯耆国人間にかなり強固な被官関係・主従関係が形成
伯耆山名氏の守護支配は、南北朝期~室町期に形成、維持された伯耆国人層との強固なつながりを基軸として展開されていった


伯耆国の戦国期への展望
・教之、豊之没後の伯耆国は山名氏の内部分裂により、国人領主層が相争う動乱状態に
・小鴨氏は守護方として山名氏を支え続け、守護被官としての位置を維持
・南条氏は反守護方として、周辺領主勢力との地域的つながりを重視し独自の成長を狙う
 →南条氏の勢力拡大は、東伯耆守護代就任による公的支配権獲得が契機となったか
・小鴨氏は守護家の没落とともに衰退の一途をたどる
・南条氏は小鴨氏をも吸収し、東伯耆最大の国人領主として成長
伯耆国教之の時代に戦国期への諸条件が内包され、彼らの死がきっかけで表面化
 →山名教之の死去と、十五世紀後半の南条・小鴨両氏の動向に、伯耆国における戦国時代への展望が見いだせるのではないか